17世紀末から、四国や九州の大名が大坂まで舟航せず、室津から上陸したり乗船するようになった。その後の江戸までの陸路は山陽道。他の港が潮流・風・水深不足などから室津になったと言われる。室津は寄港地から要衝となった。大名が泊まる本陣は日本屈指の6軒もあった。亨保元年には、紀伊国屋源三兵衛・薩摩屋孫九郎・筑前屋彦太夫・肥前屋四郎兵衛・肥後屋左太夫・一津屋三弥左衛門の6軒があった。薩摩屋の場合、島津、毛利、牧野、内藤、有馬、大村の諸藩の本陣を勤めた。また藩の特産品を扱う問屋としても活躍した。薩摩藩からは干鰯その他特産品を独占的に扱う一手問屋の指定を受け、延岡藩とも廻船82艘と取引先として指定されていた。参勤交代以外にも、朝鮮通信使、長崎オランダ商館長の参府や漁業で、室津全体が大いに栄え、今ではとても想像できない程繁栄し、室津千軒と言われた。